AfterNEW - Never Ending World -
(世界が終わったそのあとに)




#01

 ぼーっと夜空を見あげるのが日課になっていた。
 つくりものみたいに真ん丸な月が、夜空のいちばん高いところから私たちを見おろしている。なんだか居心地が悪い。
「大昔は、月にだって行けたんだよね」
 自分を落ちつかせるために呟く。特に誰に向かって言ったのでもなかったが、先生がそれを聞き逃すわけがなかった。
「どうして俺らは行けないのか、わかるか?」
 先生は人を食ったような質問をするのが大好きだ。私は先生のこんなところがちょっと嫌いだ。
「んー……やっぱり、技術がなくなっちゃったから」
 少し頭をひねってもそれ以上の答えが出てこなかったので、思ったままを口にしてみた。先生はわざとらしく顎に手をあて、うむ、とひとつ頷いた。
「まあ、もちろんそれもある。だけど、もっと簡単な事実がある。それはな」
 私は無言で続きを待つ。
「いまは行く必要がないから」
 なんだそれ。すぐさま否定しようとしたけど、言葉が出てこなかった。確かに、いまの私には、あそこに自分の足で降りたつ必要はこれっぽっちもないと思う。
 でもそれは、大昔の人だって同じだったんじゃないか。月に行ける力があって、ただそれがあったために、そうせずにはいられなかったんじゃないか。
 なんだか腑に落ちない思いが顔に出ていたのだろうか、先生は私を見て苦笑いした。
「笑えるよな。連中、よってたかって足跡だけ遺しに行ったようなもんだ」
 そう、足跡だけ。それでも、それだけでも遺しに月まで、その向こうまで行ってしまった人々に、私は、訊いてみたいことがそれこそ星の数ほどあった。
 言葉にならない私の問いかけは、どこまでも高い夜空に吸い込まれていった。月は変わらず白く、静かに輝いていた。





#02−a

 トムルの住む町には海がなかったが、トムルはそれを悲しいと思ったことは一度もなかった。
 トムルは大人たちの嘆きを聞き、身に覚えのない同情を受けて育った。大人たちは地平線のはるか彼方に去っていった海岸線を思いながら、青く冷たく広大だった海に触れることができないトムルを哀れんだ。しかしトムルの中にあるのはどこまでも続くひび割れた大地だけだった。
 ある日、町に1人の男がやってきた。大人たちはよそ者に対し、家の戸を固く閉ざした。トムルはこっそりと男に近づいてみた。乾いた大地を渡ってきた男は乾いて、疲れきっていた。
 いま思えば、単なる好奇心からだったかもしれない。トムルは男に井戸の水を与えた。男は礼を言い、ゆっくりと自分のことを語りだした。トムルの知らない現実がいくつもいくつも男の口から生まれ出た。遠い国の人々のこと。高い山々、深い森、凶暴な嵐のこと。そして、青く冷たく広大な海のこと。この男は海を渡ってきたのだ。
 トムルは尋ねた。あなたの住んでいた町には海があったのか。男は、なかった、と答えた。俺は海が見たくて旅に出たんだ、と。
 途端、トムルの中に海が広がった。青く冷たく広く、深く。見たこともない海に呼ばれた気がした。
 男は震える手でトムルに地図を手渡した。ぼろぼろの地図。広げて見ると、トムルの住む町と同じ名の大きな町が海沿いにあるのに気づいた。その事実が、これが古いものだと意味することがわかるまで、トムルは地図を見つめ続けた。海はいま、ここにはない。そして男が住んでいた町は、この地図にあってもなお海から離れていた。
 顔を上げると、男は静かに息絶えていた。不思議と満ちたりた表情に見えた。大人たちが現れ、男を町外れに埋めた。
 トムルは地図を男の墓に返した。もうトムルの進むべき方角は決まっていたから。
 ひび割れた大地は、あらゆる場所につながっていたから。





#03

「今日は、ここまでにしとくか」
 日も傾きつつあるころ、先生の声がガラクタの山の向こうから聞こえた。
 私はといえば、波打ち際で海風を頬に受けつつ、ぼけーっとしている。夕日を追って西の空をゆく三日月を眺めて、「んあー」とか、適当に返事をしたりして。
「おっと、ちょっと待てよ。これは」
 ここまで、とか言ったくせに、先生はまたガラクタを引っかきまわし始めてしまう。いつものことだった。私はもう少し、自分の考えに沈むことにした。
 このところ私は考えなくてもいいことばっかり考えている。ずっと昔に星の向こうへ行ってしまった人たちのことや、心だけの存在となってこの星のどこかで眠っている人たちのこと。また、彼らがどんな思いでそうしたのかということ。そして、いかなる理由があったんだろう、それらのどの可能性も選ばなかった、私の直接の祖先のこと。
 要するに、私がここで考えても答えなんか出ないだろうことばっかり。自分の手の届かないことばっかりだ。無駄な考えだと自分でも思う。
 きっといま大事なのは、畑に種をまく時期を間違えないことや、風車が砂に埋もれないように毎日見まわったりすることなんだと思う。でも、そういう大事なことの他にも、大切なことがあるような気もする。それが具体的にはなんなのか、私には答えられもしないんだけど。

 打ち寄せる波の音と、先生がガラクタを掘り起こすカラカラという音が気持ちいい。
 そういえば、この山をガラクタと呼ぶと先生は怒る。ここで掘り起こしているものは私たちの生活にはぜんぜん必要ないんだ、とか言っておきながら。必要ないんだったら、ガラクタと同じじゃないか。
 だけど、ひょっとしたら、とも思う。先生が大切にしてるものって、その、必要なものとはちょっと違うのかもしれない。畑を見たり風車を点検することとは別の――なにか大事なもの。それがこのガラクタの山にあるのか? 先生ってば、いったい、なにを探してるんだろ……。

「こら。起きろ」
 ぽん、と先生の手が頭に乗っかった。大きな手。私は目を覚ました。いつのまにか眠っていたんだ。夕日はもう、水平線にかかろうとしている。空が、真っ赤に染まっている。
「あいかわらずのんきな奴だな。風邪ひくぞ」
 誰がのんきなもんか。自分こそ、超がつくほど、のほほん人間のくせして。
 ふと見ると、先生は手になにか持っていた。小さな箱だ。すっぽりと掌に収まるほどの透明な四角い箱。初めて見る。
「先生、なにそれ」
 目をこすりながら、先生の手の中を覗き込む。
「フフフ。これか。これはだな」
 先生は得意顔でそれを夕日にかざした。
 赤い光を受け、しかし箱の中には鮮やかな虹の色彩が踊った。
 思わず息をのんだ。
 これは、何色なんだろう。
 私は光る箱を受け取る。日にかざす。赤から黄、黄から緑。そして青。色は私の思考が追いつく前にゆらゆらと変化し、言葉で表現する間を与えてくれなかった。
「……きれい」
 それだけしか言えなかった。本当にきれいだった。先生もそうだな、と頷いた。
「こいつは、かなりいい状態だな。データもきれいに残ってるだろう」
「データ?」
「そう、データ。この箱は、情報を記憶する媒体なのだな。中身を引き出す機械もどこかに埋もれてるはずなんだが」
 先生の言う「きれい」と、私の言いたかったそれとは、なんだかずれている気がする。
「ふーん。あっそ」
 私はなんだか急につまらなくなって、町への道をひとりでずんずんと歩き始めた。少しも行かないうち、先生のわざとらしいため息が聞こえた。
「やれやれ。おまえが喜ぶと思って、特にきれいなものを探したんだけどな」
 ……私は、先生のこういうところがちょっと嫌いだ。
 振りかえると、先生がニヤリと笑っている。このやろう、わかっててからかってるんだ。
「さあ、きれいな夕日を背にして帰るか。ほら行くぞ」
 結局、いつもどおり。私は先生の少し後ろにくっついて歩いた。悔しいぐらいきれいな虹の箱を手に持って。くそっ、のほほん男め。

 静かだった。日が沈み、闇が満ちてくる。
 ゆっくりと歩く。波の音を背中に聴きながら。沈みかけの三日月の、かすかな光を感じながら。
 そういえば、前に先生が言っていた。昔は月が地球のもっと近くにあったから、潮の満ち干なんかも、いまとは比べものにならないぐらい激しかったそうだ。
 どんな時代だったんだろう。満ち干の高さだけじゃない、毎日がお祭りみたいな、もっとずっと、なにもかも賑やかで大げさな世の中だったんじゃないかなと思う。
 そう先生に告げたら、
「おまえこそ大げさなやつだな」
 と大笑いされた。
 なんだよ。そんなに笑うことないじゃないか。ほんとにそう思ったんだから。私は先生の背中を睨みつけてやった。それが届いたのか、先生は足を止めた。私はまたからかわれるんじゃないかと、つい身構える。だが、聞こえたのは意外な言葉だった。
「そうかもしれないな」
「え?」
「お祭り、だよ」
 先生は振り返らずに言って、続けた。
「俺らは、祭りの後片付けをするためにここにいるのかもしれないな」
 背を向けたままの先生。表情は見えなかった。でも、なんとなくわかった。
「……先生、お祭りに参加したかった?」
 たぶん、いま先生は「なにか大切なこと」を思い描いているのかも。そんな気がした。そしてそれは、そう間違ってはいないと思う。先生は、静かに答えてくれた。
「したくなかった、って言えばウソになるな。でも――」
 私たちはいつしか夜空を見上げていた。怖いぐらい、満天の星、星、星。
「――でも、祭りの跡を見て、やつらがどんなバカ騒ぎをしていたのか想像するのも楽しいんだ」
 先生は振りかえって、いつものようなイタズラっぽい笑顔を浮かべた。私も微笑みかえした。
「行っちゃった人たちって、まだお祭り続けてるのかな」
 どうだろな、と先生はまた笑って、私の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
 先生と私は、並んでしばらく空を仰いでいた。夜の空気。柔らかい波の音。潮のにおい。三日月が水平線の彼方に、ゆったりと沈む。とくになんてことのない時間が、ゆったりと流れていた。
 私の頭にもういちど、ぽんと手が置かれる。私は先生の顔を見あげる。優しい目が、私のことを見ていた。
「さてと。それじゃ、いいかげん帰るか」
「うん。おなかすいたし」
「だな」
 そして私はまた、先生のあとにくっついて歩き始めた。その背中を、虹の箱で透かして見たりしながら。
 まだ世界って、わりと、大切なもので満たされているのかもしれない。
 ちょっとだけ、そんな気がした。





#04−a

 ここから五日ぐらい歩いたところに、バカみたいにでっかいドームがあるだろ。遠目には山みたいなもんだ。うん、バカみたいにっていうか、あの大きさは完全にバカだよな。とびっきりの、世界最高峰のバカだ。
 先生は楽しそうに言うと、さあ支度しろ、念のため食料はひとり十日分だ、と勝手なことをほざき始めた。ちょっと待って、なんなんだ急に。
「ちょっと……先生、なに?」
「なにって、行くんだよそこに。ドーム。歩いて五日」
 話が見えない。
「え、えっ? だから」
 どうにも理解に苦しむ私を見て、先生は心底意外そうな顔をした。
「だからもなにも。あれっ、言ってなかったか? 祭りだよ祭り。そのドームに“市”が立つんだ。世界中の珍品奇品が勢ぞろいだぞ」
 聞いてないぞ、そんなの……。
 初耳だと先生に言うと、先生はバツが悪そうに「あ、そうか、すまん。そうだな、おまえはまだ行ったことなかったな……」と頭をかいた。普段の先生からちょっと考えられないぐらいの素直な謝りっぷりが気になったけど、すぐに「というわけでいまから出かけるので、急ぎ準備をするように」、いつものペースに戻られてしまった。

 というわけで、先生と私はいまちょっとした旅の途上にあるわけだ。
 水と食料は十日分。私は宝物にしている古い双眼鏡、先生は簡単な絶対方位コンパスを持っている。
 普段めったに町から離れない私にとって、どんなに小さな旅でもわりと新鮮だったりする。まあ、町の外っていうのは退屈なひび割れ大地が広がるだけなんだけど、それでも変な形の岩が転がってたり、あたりまえだけど歩いてくうちに山が近づいてきたり、珍しいむらさき雲が突然現れたり消えたりするのを見るのはとても楽しかった。
 先生は、そういった町で見られないものをたくさん見てきているわけで、だからこそ私は先生と呼んでいるんだけど、先生にはもうこんな風景、全然つまらないんじゃないかと私は思ってしまうのだ。
「いや、おもしろいぞ」
「そうなの?」
「ああ。いろいろおもしろがって、子供みたいにはしゃいでるおまえを見てると楽しいぞ」
「そっ、そんなにわいわい喜んでなんて!」
「まあ冗談はさておきだな」
 またからかわれた、屈辱!
「やっぱり、こうして風景眺めながら歩くのは理由もなく楽しいよな。空もきれい。瓦礫ばっかの山もきれい」
 うん、なんとなくわかる気がする。私はうなずく。
「たぶん人間て、世界に自分独りになったって、きれいなものはきれいだと思うんじゃないかな。そのことに意味があってもなくっても」
 わかるような……よくわかんない。私は無言だ。
 先生はなにか考えている様子だったが、私が見ていることに気付くと、
「まあ、旅は楽しいもんだよな。うん」
 と、いつもの、のほほん顔に戻って言うのだった。
「……やっぱり先生はのほほん人間だ」
「のほほんとはなんだ、のほほんとは」
「だって先生、いつもぼーっとしてるようにしか見えないんだよ」
「バカ言うな。いろいろ考えすぎちゃってるから、表情にまで脳の処理を割りあてられないんだよ」
 それはやっぱり……ぼーっとしてるのと変わらないんじゃないのか。

 旅は楽しかった。順調に四日が過ぎ、五日目の朝。この丘陵地を越えれば、例のバカなドームが見えてくるぞ、と先生が言った。
「あれを作った大昔の連中こそ、本物の、のほほんだ」
 うん、そうだ。のほほんだ。と先生は決め付けた。
 実のところ私は少し、いや、かなりドキドキしていた。
 もうすぐ見られる。見たことのない、だけど確かに私たちの祖先が作ったものが。
 あとで考えればこのドキドキは、先生が長い旅から戻ったのを聞き、何年か振りに会いに行ったときのそれに近いものがあったかもしれない。期待と緊張と懐かしさと、そして――。
 そうして私たちは小高い丘を越えた。
 そこに、それが、あった。





#04−b

「あんまり口開けっぱなしにしてると、虫とか飛び込んでくるぞ」
 先生の一言ではっと我に返った。だけど私は頭が混乱して、なにも把握できてなくて、えーと、えーと、気がつくとまた口が半開きになっているのを先生に笑われた。
 確かに、それはそこにあった。いや、あったというか、まあとにかくいま目の前に見えているのが先生の言っていたドームなんだろう。巨大なお皿をさかさまに被せたようなのがそうなんだと聞いた。私はドームってものを見るのは初めてなんだけど、それにしたって。
「なにやってんの、これ」
 さんざん焦げついた脳内を経由して、ようやく口に出た一言。誰に対しての、何に対しての言葉なのか、これじゃさっぱりわからない。
 だけど先生は私のそんな反応が大いにお気に召したようで、
「どうだ。でっかいだろ。のほほんだろ。バッカだよなーこの皿、あはっはははは」
 声をあげて笑い、私の背中をバシバシ叩くのだった。
 私はぼーっとした頭のまま地平線に目をやった。私たちのいる小高い丘からは全方位がよく見渡せた。私たちが歩いてきた方角には乾いた平地が広がり、そして、ドームの方角には――ドームが一面に広がっていた。
 ……いや、なんて言ったらいいんだろう。白っぽくてきらきら光るドームの屋根が、目に見える範囲ずっと向こうまで広がっているのだ。バカみたいに。そうだ、これは海に似ている。どこまで続いているのか得体が知れない広さ。まだ小さかった私は初めて海を見たとき、その広さが底知れなくて、怖くて泣いてしまったのを覚えている。いまは、いまの私は――。
「っ……は――――……っ」
 長く、大きく息を吐いた。相当力んで彼方を凝視していた。全身が眼になったような状態からようやく抜けると、同時に身体から力も抜けた。「うわ。あ、れっ」膝ががくがく笑っているのに気づく。
「よし、期待通りすぎる反応。相変わらず意外性のないやつめ、ははは」
 おまけに先生まで笑ってやがる。うう、いつか絶対仕返ししてやる。
 そして先生と私は無言で座って、しばらくその場を動かなかった。私は自然とドームを見つめてしまう。じっと眺めていると、白い表面はさざなみのように細かく震えているようだった。光の加減で、屋根の上に虹が踊るように見える。気のせいか、木の葉擦れのような、ざわざわという音も聴こえる。いや、これは……波の音だ。さざなみの音。どうしてだろう、すごくよく似ている。
「聴こえたか。同じだよ、波の音だ」
 それが顔に出ていたのか。先生が私に頷いた。
「でも、波って、水のとこにできるものでしょ?」
「うーん、そもそもそういうんじゃないんだけどな。まあ、そうだな。あのドームの屋根も水みたいなもんだと思ってれば間違いない」
「ふーん……」
 水でできてるのか? これが?
「さて、と。歩けるか。もう少しここにいるか」
「うん……」
「そうか」
 どっちつかずの私の答え。先生は背中から荷物を下ろすと、水筒からコップに水を注いだ。固形ギユルを一粒落とす。
「ま、とりあえず、なにをするにも気が済むまで眺めてからだな。ほら」
 温かくて茶色くて甘い飲み物へ化けた水を受け取り、一口すすると、また少し緊張がとけた気がした。普段わざとらしく感じるこの味も、この景色の前だとなんでもないことに思えた。

 そうしてしばらくそのまま時間が過ぎていった。私はさざなみの音を聴いていて、ふとあることを思い出した。初めて海を見たときのこと。
「そういえば先生、私が最初に海へ行ったときも、先生が連れてってくれたんだよね」
 その頃はまだ先生のことは先生と呼んでなかったと思ったけど。
「そうだな。おまえなんかまだこんな小さなガキだった。よく覚えてたな。まあ俺もほんのガキだったけどな」
「あのあとしばらくしてからだったよね、先生が町を出たの」
 私はまっすぐ先生の目を見て言った。なぜか、目をそらしたくなかった。先生は何かを察したのか、小さく笑い、私の頭を帽子ごと掴んでわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「あの時はあんなに小さなおまえを連れていくわけにもいかなかったし、俺も自分のことでいっぱいいっぱいだったしな」
「……私、まだ先生の旅のこと、ほとんど聞いてないんだよ。聞いても教えてくれないし」
 ちょっと待て。なんだ? 私は拗ねてるのか? ついさっきまではでっかい景色を前にして呆けてた自分が、なんでいきなりこんなになっちゃうんだ。
「だいたい、いつもぼーっとしててなに考えてるのかわかんないし、マイペースって言えば聞こえはいいけど、ただのわがままだよそんなの!」
 あああ、勝手に言葉が飛びでてくる。待って、ちょっと待って。きっと今日は常識外れなものを見たせいで、頭がおかしくなっちゃってるんだ。
 知らずのうちに私は涙をぼろぼろこぼしていた。感情にまかせて、さらにひどいことをいろいろ言ってしまったかもしれない。よく覚えていない。ドームの大きさが怖かったのかもしれない。海の得体の知れなさを思いだしたのかもしれない。私は怖かったのに、独りで旅に出てしまった先生が許せなかったのかもしれない。勝手なのは私のほうだ。だけど、そうだ。怖かったんだ。どうして世界はこんなに広いんだ。自分の居場所がわからなくなるほどに。誰か教えてよ、私はどこにいればいい。私はどこに行けばいいんだ。

「大丈夫。大丈夫だ」

 先生の声が聞こえた。私は先生に抱きとめられていた。強く。
「大丈夫。おまえは、どこにだって行ける。焦らなくたっていいんだ」
 私は先生の胸に顔を埋め、泣き続けた。ああ、何年分泣いてるんだろう、とか、鼻水が! とか、くだらないことばかりが頭をよぎった。だけど先生はなにも言わなかったから、私はそのまま、私の気が済むまで泣いた。





#04−c

 泣いた。ほんとに泣いた。たぶん一生ぶんぐらい。
 結局私が落ちついたのは陽も傾き始めたころ、涙や鼻水なんかでガサガサになった頬をひやりとした風が撫でてゆくようになってからだった。
「泣いた泣いた。ほんとに泣きまくったな」
「うん」
 素直に頷いた。まだ耳や胸のあたりが熱く火照ってはいたけれど、妙に清々しい気分だった。私の中にわだかまっていたものが流れ出ちゃったのかもしれない。先生はまたギユルを溶かした水を私に差し出した。
「ほら。水分補給」
 湯気のたつコップを受け取り、一気に飲み干した。今度こそ本当にこの茶色く濁った飲み物をおいしいと感じてしまった。ほう、と思わずため息が出た。
 そうして無防備になった私の隙間に、先生の言葉が滑り込んだ。
「ごめんな」
「え」
 顔をあげると、先生と目が会った。
「そうだよな。怖かったよな」
 一生ぶんの涙を流したはずだったのに。私の視界がにじむ。あわてて顔をそむけた。今度は先生は茶化さなかった。
「おまえにまだ言っていないこと、山ほどあるな」
「ん――」
 ああ、遠くでさざなみの音がしている。
「俺は口ベタだし、なんだろうな、結局俺が言いたいことって、おまえ自身が体験してくことだと思うし」
「うん」
「だから、大丈夫だよ。どこにいるのかわかんなくなっても。そのとき、そこにいるのがおまえなんだから」
「うん――」
 あいかわらず先生の言うことはよくわからなかったが、そこに込められた気持ちだけはわかる気がした。私は自分の膝を強く抱き寄せ、顔を埋めた。
「お、まだ泣いてくか?」
 普段の私なら間違いなく食ってかかる先生の言葉だったけど、いまは不思議と気にならなかった。
「……泣かないったら。子供じゃないんだから!」
 立ちあがり、涙目のままの笑顔で言った。ついでに先生の背中を軽く蹴とばしてやった。先生はニヤリと笑い、荷物を背負って立つ。
「よし。日が暮れる前にドームに入っちまおう。今夜は久々に屋根のあるとこで寝るぞ」
「うん」
 私たちは丘を下り始めた。ドームは夕日を映して黄色から赤、その表面にゆっくりと光を躍らせていた。夕凪の海のようだった。なんだかもう、懐かしく、やさしく見えた。





#04−d

 ごそごそ。
 どうしても落ちつかなくて、私は寝袋の中で寝返りをうつ。視界に入ったのは、隣で寝ている先生の後頭部。黒い髪と、周囲の白い空間との強いコントラスト。
 夜。しかし、暗くはない。私たちはいま、あのドームの中にいた。
「先生、起きてる……?」
「いや、寝てるぞ」
「あ、そう……」
「なんだ、トイレなら、どこかそのへんでしてこい」
「そうだね……」
 いまの私には、突っ込みを入れる気力なんてなかった。ただ、なにか喋っていないと不安で仕方なかったのだ。
 信じられないぐらい大きなドームは、その内部も広大だった。私は先生の黒髪から目を離し、仰向けになり、ぼんやりと白く光る天井を眺める。のっぺりとしていて、高さの感覚はさっぱりつかめない。
「まっしろだ……」
 私をいつも不安にさせていた月の光すら、いまはすごく恋しい。

 私たちがこの中に入ったのは、日が暮れる少し前だ。ドームに入り口らしい入り口はなかった。壁面を前にどうするんだろうと首をかしげる私に、先生が突拍子もない質問を投げかけてきた。
「そうだ。おまえ、字は書けるよな?」
 なんだ、また突然。
「そりゃ書けるけど……どうして?」
「いや、べつに書けなくっても構わないんだが、こういうのは自分の名前でも書いたほうが様になると思ってさ」
 微妙にかみ合っていないやりとりの中、先生は懐から一枚の白い紙と、使い込まれたペンを取り出した。それを私に渡す。
「これ……?」
「ああ。それに自分の名前でも書いてくれ。その他もろもろ、好きなものを好きに書いてもいいぞ」
 紙は私の掌と同じぐらいの大きさで、夕日にかざすと、うっすらと赤い光が透けて見えた。いったいこれはなんの儀式なのか。ここまで来て書きとりのテストでもするのか。よくわからないままだったけど、私はペンを走らせた。ちょっと控えめなサイズの、私の名前。
 先生はそれを受けとると、案の定「もう少し堂々と書けばいいのに」という表情をしつつ、しかし「いい字だな。うん」と言った。褒めるんなら素直に褒めてくれるだけでいいのに。
 次に先生がペンを取り、私の名前の隣に自分の名を書きつらねた。ひと文字づつ声にしながら。それはやっぱり、なにかの儀式にも見えた。
「……と。これでよし。こんなやり方しか残ってないなんて、皮肉なもんだな」
 そんなことを呟きながら、先生は紙をドームの壁面に押しつけた。紙は、糊で貼ったようにぴたりとくっついた。巨大なドームに、先生と私の名、小さな文字。その対比がなんだかおかしくて、私は思わず吹きだしそうになった。先生もいつものニヤリ笑いで応える。
「さて、もうしばらくしたら準備完了だ」
「準備って、いまのが? なんの準備だったの?」
「まあ、見てのお楽しみってやつだな」
 ほどなくして、変化が訪れた。始めはゆっくりと、やがては目に見えて。紙に書かれた文字が薄れてきている。いや、そうじゃない。紙そのものが壁面に溶け込んでるんだ。
 気がつけばもう、私たちの名前も、紙が貼られていた跡も、なにも残ってはいなかった。不思議な現象を前に、私は素直に驚いている。
 そんな私を満足げに眺めると、先生はぽん、と私の肩を叩いた。
「準備はOKだな。行くとするか」

 結局、ドームには、目に見えるような入り口はなかった。
 壁に向かってどんどん歩いていってしまう先生を慌てて追いかけ、身体にふわりとなにかが触れた次の瞬間、そこはもうドームの中だったのだ。なんだか狐にでもつままれた気分。この場合、狐は先生だろうか。確かに人を化かしそうなやつではある。
 でも、これは騙されているわけではないんだろう。
 そこは膨大な空間だった。
 常識外れな空っぽ。
 天井も床も、どこまでもぼんやりと白く、ただ静かに平坦に、地平線(そう呼んでいいのかわからないけど)の果てまで広がっている。
 私はしばらく呆然としていた。外から見たときの数倍、いや、数字の問題じゃない、とにかく大きく感じる。
 大きさだけで言えば、ここに来るまでに歩いてきた、ひび割れた大地のほうが遥かに広大に違いない。だけど、これは、それとは根本的に違うと思った。私たちの祖先がつくったという、この異常な広さは、こんな、一体なにが、どうして――――
「大丈夫か」
 先生の声で我に返る。
 気がつけば私は、自分の腕をかき抱いて震えていた。寒くもないはずなのに、かちかちと歯が鳴っている。
「あ……あう、うん。平気。ただ、ちょっと、驚いちゃって……」
 先生はいつものように「うむ、予想通りの反応」なんて言わなかった。その視線は私と同じように、遥か向こうを見つめている。
「俺も、ここにくると、いつも怖いよ。恐ろしいぐらい空っぽだもんな」
 そう。ここには、なにもなかった。
 外の世界はここよりも広いけど、大地があり、太陽や月や星があり、空もあり、雲もあり、風もあり、海もあった。確かにそれらは私たちがつくったものではなく、私たちがどんなに望んだって全て手のうちに入らないものではあるけど、私のまわりにいつもあって、一緒にいてくれるものだった。
 だけど、このドームは、私たちがつくったものだ。人間が、自分の手の届くものとしてつくり上げたものだ。なのに、それなのに。
「空っぽ、だね……」
 このときの私にはまだ、この怖さの正体がはっきりとわからなかった。ただ漠然と恐ろしさだけを感じていた。
 私は知りたいと思っていた。かつて私たちの祖先が、なにを思ってこの星で生きていたのか。だけど、その答えのひとつがこの空しい空間だとしたら、ひどく残酷な気がした。これほどの建造物を作った技術自体は、当然すごいものなんだろう。いまの私には見当もつかない。でも、それだけだ。この巨大なドームは、それ以上のことはなにも教えてくれなかった。空っぽだった。
 私はさらに強く、自分を抱きしめた。そうしないと、自分が消えていってしまいそうだった。この空間の広さに限りなく薄められ、溶けていってしまうような気が――、
「さてと。それじゃあ、メシの準備でもするか」
 がくっ、と力が抜け、現実に引き戻された。
「せ、先生……」
 私は軟体動物のようにへたり込む。
「ん。なんだ、腹へってないか?」
「いや、そうじゃなくって、その……空っぽ……」
「空っぽか。それはいいな。いっぱい食える」
 誰が腹の話をしているか。
 ともあれ先生との会話で、私は少しだけ平静を取りもどせたようだった。なんていうか、自分の中身まで空白になっている気がして、まるで力が入らなかったけれど。
「食べたら寝ちまおう。すべては、明日」
「うん……」
 私は生返事。これ以上、ここになにがあるっていうんだろうか。
 先生が温めるスープの匂いが、空っぽの空間のほんの片隅をふわりと満たした。けれど私の中は、まだ空洞のままだった。





#02.b

 時は流れる、と言うけれど。
 流れた時は一体どこへ行ってしまうのだろう。
 トムルは独り、風化した遺跡の前に佇んでいた。
 いま眼前に姿を晒している廃墟は、時の流れの象徴そのものに見えた。かつてここに暮らしていた人々も、またその思いも、時によって押し流され、どこかトムルの手の届かないところへ去ってしまったのだろうか。
 時は流れる、と言うならば。
 いつか自分もそこに辿り着くことができるだろうか。時の流れ着く先へ。
 トムルは独り歩き出す。未来と過去へ繋がる、この乾いた大地を渡る旅へ。



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