#003



「ククク……クハハハハア!」
「お客さん?」
「やったぞ、やってやった。警察官でないのに警察官立寄所に立ち寄ってやったぞ、ざまをみろ――!」
「帰ってください!」





「ねえ、手、つないでいい?」
「ばっ、なに言ってんだよこんなとこで!」
「あ、照れてやんの。やーい」
「なんだよ。恥かしいやつだな、ったく……」
「あはは。どのぐらい恥かしかった?」
「うーん……ユニクロで買った服を着て、またそのユニクロに買い物に行くぐらい」
「……帰る!」





 難しいことばかり考えていると難しい人間になるよ、と言われた。
「じゃあ、簡単なことを考えれば簡単な人間になるのかよ」
「ほら、またそうやって難しく考える」
 どうしろっていうんだ。だいたい、難しいことってなんだ。気になることがあるから気にしてるだけだ。全然単純じゃないか。
「オチはいたって簡単なのに、わざわざ難しく考えてるんだよ。わからないかなあ」
「じゃああんたは簡単な答えを出せるのか?」
「うん。簡単だよ」
「へえ、教えてもらおうか」
「だって、答え、ないんだから」
 答えがない。
 はたして、どこかで気づいていた。
 すべて過程しかない。
 認めたくない。
 答えのない過程に意味は、
「ほら、やっぱり難しく考えてる」





 久しぶりに会った友人は、いたって普通の人間になっていた。
「そりゃ、十年もたてば変わるよ」
 彼はそう言って照れたように笑った。が、そんな表情すら以前の彼からは考えられないものだった。僕はきっと信じられないものを見たような顔だったろう、半ば呆然として彼に問いかけていた。
「驚いたな……。もう全然使ってないのか? その、超能力とか魔法とか」
「うん。ああ、使えば使えるんだけどね。なんか、もう別にいいかなと」
 彼はいわゆる超能力者であり、魔法使いだった。テレビの特番なんかでやっているやつでなく、正真正銘の能力者だった。学校には空を飛んだりして登校していたし、気に食わない教師を授業時間中、異次元に放り込んだりしていた。ムシャクシャしている時などは掌からエネルギー波を出して学校を大爆発させたり、それを何事も無かったかのように元通りにしたりした。
 それらの能力を社会的に秘密にしておくこともまた、彼にとって簡単なことだった。そのほうが色々やりやすいから、と彼は言っていたが、別に知られてもどうにでもなったと思う。彼はそれほど強い力を持ち、またその力に拘泥していた。ちょっと移動するにも瞬間移動、欲しいものがあればすぐに念動でお取り寄せ。会話がめんどくさければテレパシーで一方的に思考を送りつける。そんな彼がいま、自分の足で僕の前まで歩いてやって来て、自らの言葉で、声で語りかけてきたのだ。
「なんだよ、そんな珍しいもの見るように。ああ、珍しいのか。そりゃそうだよな。俺、あの力が大好きだったしな」
 彼は言い、そしてまた笑った。しかし、なんだろう。この豹変ぶり。穴の開いてしまった三足五百円の靴下を捨てるような、考えられないほどのこだわらなさ。
「いや、なんて言っていいのか……」
 わからない。不思議のオーラを身にまとい、明らかに僕らと違う種類の生き物に見えた昔の彼。それが、こんな――
「べつに、飽きちゃったとかじゃないよ」
「えっ」
 心を読まれたかと思った。彼はニヤリと笑った。
「心を読んだわけでもない。だいたいそんなふうに思うだろうなって」
「あ、ああ。でも本当に、どうして」
「うん」
 少しの間。彼の次の言葉を待った。
「……俺はあれから、いろんな能力を試してみた。ヒトを一人造り上げてみたりとか、宇宙の構造を確かめに行ったりとか」
「うん」
「それなりにいい気分だったよ。神っていうのはああいう気分をいつも味わってやがるのかな、なんて思った。なのにある時」
「ある時?」
「ここに戻ってきてみると、同級生、おまえらのことだけどね、それがみんな就職だなんだと騒いでる。バカらしくなってさ、百兆円ぐらい造りだして、みんなでおもしろおかしく暮らしてやろうと思った」
「造ったのか?!
「いや。そこで気づいちゃったんだ。俺は結局、自分の能力を現実世界に対してしか使っていなかった。逆にそうでない使い道が思い浮かばなかった」
「……」
「例えば、俺がポンと百兆円作っちゃったとする。だけどそれは、まあ程度問題ではあるけども、『金を手にする』という行為としては一般人となんら変わりが無い」
 ああ、なんとなくわかる気がする。僕と、僕の一部の仲間がそれでもこいつを友達と思えてるのも、もしかしたら。
「俺が宇宙について知り得たことでも、人類があと数千年ぐらいでも考え続けていれば知ることができるかもしれない。まあ実際、ちょっと未来に行って見てきたけど、事実その通りだったよ」
「そうか」
 我ながら芸の無い相槌だと思ったが、他に答えようがなかった。
「俺の能力と知識を全ての人間にコピーしてみようかと考えたんだけど、それじゃみんな同じになって俺の存在意義も薄れるし。結局、力を使うだけ使ったら、使う意味が無くなってきちゃったんだよ。超能力とか、魔法とかじゃなくていいかなと」
「うん」
「まあ、たまにはちょこっと使うこともあるんだけどね。そんな時は、昔のことを思い出すよ。力使いまくって、わけのわからない衝動っていうかエネルギーが自分の中にあふれていた頃のこととかね」
 何故だか、そのとき僕は、彼の心の中がわかるような気がした。
「じゃあさ、今となっては、あの頃の自分も大好き?」
 彼はちょっと驚いた顔をした。
「なんでわかったんだ?」
 僕はもう、それを見ても驚かない。今度は僕がニヤリとした。
「いや。久しぶりでも、長い付きあいだからな。どうだろ、ヒマあったら今から飲みにでも?」
「いいな。他の連中の話も聞きたいし。よし行こう」
 僕らは並んで歩き出した。お互い十年の間にあったことを語り合った。次に会うのはまた十年後かもしれない。今度は僕が超能力者だとかになっているかもしれない。
 だけどそれでも僕は、僕らはそれでいいんだと思った。





「あのね、きょうね、せんせいがねー」
「うん? どうしたタクミ」
「ちきゅうは、まるいんだぞ、ってゆってた」
「お、それはすごいこと教えてもらったなあ」
「うん。でもね、まるいと、タクミおっこっちゃうとおもうんだ」
「そうだなあ」
「うん、みんなおっこっちゃうとおもうんだ」
「そうだなあ……タクミ、こないだサーカス見にいったの覚えてるか?」
「みた。くうちゅーぶらんこ。たまのり」
「そう! 玉乗り。あれな、ピエロの人は玉の上から落っこちなかっただろ」
「おちなかった!」
「……ピエロは落ちまいと必死に玉の上でバランスを取る。時に静止することがあっても、それは数瞬のこと。やはり足を滑稽にばたつかせ、無限の軌道を描く玉の上を歩く」
「うん」
「いいかタクミ、地球もそれと同じなんだ。転がる球の上から落ちまいと、その上にいるものたちは必死にバランスを取っている。よってたかって。止まるな。止まったら落ちる。すなわち死だ」
「タクミたちはピエロってことかー。フフフ、おかしいや。こっけいだね」
「うむ。そういうこ……タクミ?」
「とーちゃん。あなたは、うそをついているよ。とーちゃんがおそれているのは、とまるとしんじゃうってことじゃない。じぶんがとまることで、ほかのみんなからなかまはずれにされちゃうかも、というきょうふなんだよ」
「た、タクミ……一体お前は?!
「って、せんせいが、ゆってたー」
「すげえ先生だなー」





【参】

「井戸なら、ここにあるよ」
 老人はそう言って、傍らの穴を指し示した。それは平らな地面に唐突に穿たれた円い穴だった。井戸というより落とし穴にしか見えない。
 しかし喉が渇ききっていた僕はなんの疑念も持てなかった。慌てて駆け寄り、井戸を覗き込む。相当な深さがあるようだった。
「暗い。水面が見えない。本当に水があるのですか」
 からからの声で老人に訊いた。老人は、くふっ、と笑うと、いや、咳をしたのかもしれなかったが、おかしそうに言った。
「なんだ、水が欲しかったのか。それならばなぜ『水はどこにあるか』と訊かなかったのか。今しがた、お前さんは『井戸はないのか』と訊いた。井戸はここにあるよ。水が出るのかどうかは、知らん」
 この爺さんはなにを言っているんだ。
「水を汲み上げるために井戸があるんでしょう。なんなんですかその穴は、涸れ井戸ですか」、そして僕はいまさらに気がついた。「だいたい井戸というには、水を汲む道具がなにも、ないじゃ ない です  か」
 渇きで喉が貼りつく。声がうまく出ない。だが老人は僕のそんな様子を気にかけるようでもなく、淡々と呟いた。
「まあ、お前さんが飲める水は今、ここにはないよ。雨を待つほかないだろうさ」
「雨はいつ降りますか」
「さて、お前さんがここから出て行くまでに一度でも降ればよいが」
「そんな、干乾びて死んでしまいます」
「そうだな、それが必然だな」
 老人はまたくふ、くふっと笑った。笑っていた。
「水があるから井戸を掘る。井戸を掘るから水が出る。ならば、水がないところに掘った井戸から水が出ないのも必然だろう。この井戸はまだ、汲み上げるためにあるのではなく、ただこれが井戸であることを忘れないために掘られた井戸なのだ。そして私は」
 老人はふらりと立ち上がった。その身体は井戸の淵へと――。
「君にこの井戸を託す。いつか水が湧きでもしたら、いつか雨が降って水が満たされでもしたら、君は胸を張ってこれが井戸だと叫べばいい」
 そして別れの言葉もなしに、老人は井戸へと吸い込まれていった。不思議と僕は老人がそうすることが当然に思えて、一連の所作をただ呆と見ていた。穴の中は暗く、老人の姿はもう見えなかった。
 僕は井戸の傍らに腰を下ろした。老人が飛び込んだことで雨が降るわけでもなく、水が湧いたりするわけでもなかった。なにも変わっていなかった。ただ、老人が座っていた場所にいまは僕が座っているだけだ。
 僕は水を汲みにここに来た。水はなかった。実は僕は水を汲める場所を他に知っている。だがここで汲まねばならないのだ。この井戸で。僕はこの井戸を探していたのだから。
 ゆっくりと目を閉じて待つ。どこか身体の奥底で水の音を聴いた気がした。





【台無し:間違ったツッコミ】

「もー、どうして起こしてくれなかったのよ!」
「何度も起こしたよ! あんたね、あんまりもーもー言ってると牛になっちゃうよ!」
「いいもん、牛肉好きだもん!」
「今夜は、ハンバーグね!」





 ジョッキンガム教授の授業はおもしろくていつも大好評だった。
「えー、今日はちょっとした化石をもってきました」
 教授はそう言って慎重に包みを解き、一枚の石版を取り出した。子供たちは色めきたって、さっそく教授の周りに群がった。
「これは約十万年前の地球のものです。この板には、文字によって法律が記されているんだね。目には目を、歯には歯を」
「なにそれー」
「なにそれー」
「うん。この時代の人間には、まだ目も歯もあった、ということなんだね。不思議な時代だったんだねえ」
「あはは。へんなのー」
「へんなのー」
 教授はもっともらしく頷くと、しかし子供たちに微笑みかけながら語った。
「でもね、みんな。私たちの常識から全てを捉えようとすることは、実につまらないことなのだよ。想像してごらん。目も歯もある人たちが普通に暮らしている様子を。それだけで夏休みのレポート百回分の素材になるぞ」
 子供たちは笑いながら、素直に応えた。
「はーい」
「わかったよ先生」
「でも百回も書きたくないよー」
 その反応に教授は笑顔を向けると、今度は薄い金属板を取り出した。
「そして、これも同時代の地球のものなんだ。おそらく、いまの石版よりはほんの少し新しいものかな。観てごらん。これはおもしろいぞー」
 子供たちが再び身を乗り出す。
「絵が描いてある!」
「わ、目も歯もある人の絵だよ!」
「これは保存状態がよくて、奇跡的に残っていたものなんだよ。当時の地球ではこのような金属板がごく一般的に存在していたと思われているんだけどね」
「先生、この板は何のために作られていたんですか?」
「うん、残念ながらそれはまだ解明されていないんだ。公共の場などに掲示し、目で見るためのもの、ということはわかっているんだが」
「先生、ここに書いてある『ボンカレー』ってなに?」
「うん、おそらくそれも先の石版のように、文字によって何らかの意思を伝達しようとしているんだろうね」
「へんなのー」
「へんなのー」
「ばか、へんじゃないって先生言っただろ」
「あ、そっか。おもしろーい」
「おもしろいねー」
 教授はゆっくりと子供たちを観回した。この子らは、太古の遺物から何かを学び取ってくれただろうか。今の自分たちが暮らす世界も、これまで人間が紡いできたあらゆる可能性のひとつの側面であるということを。その可能性を、自由な心で広げていってほしいものだ。
「私はね、この金属板を観るたびになぜだかとても懐かしい気分になるんだ。ボンカレー、ひょっとしたらそれは我々人類の心の奥底に連綿と続く、大きな流れのようなものなのかもしれないね。では、今日の授業を終わります。質問のある人は休み時間に遠慮なくどうぞ」
「きりーつ」
「れーい」





【ニャーする】

「猫ってやつは、夏には涼しい場所、冬には暖かい場所を見つけるのが本当に上手いんです。今朝もあんまり寒かったので、試しに猫が寝ている場所に布団を敷いてみたら……これが、まあ! 驚きですよ! 冷え性の私がぽかぽかぐっすり眠れましたね」
「……それが遅刻の理由かね」
「ニャー」
「返事は『はい』だ」
「いえ、いまのニャーは否定の意味です」
「どっちでもいいよ! クビ!」





「俺さ……もし『自信のない人世界選手権』があったら絶対優勝する自信があるよ」
「? 自信あるのかないのかはっきりしてくれ」





「前言撤回。自信のない人世界選手権が開催されても優勝する自信すらないよ……」
「どっちにしろ参加するだけの自信はあるのな」





【ビッグロボ 第13話『そして、愛』】

「敵、第三警戒ラインを突破。副迎撃システム、無効化されました!」
「正一くんとの連絡はいまだに取れません!」
「むぅ……っ。どこに消えた正一少年。この地球の大事に怖気づいたか」
「ごめんなさい博士、遅くなりましたー」
「正一くん?! いったい今までどこに行っ、んん? 誰だねその子は」
「えへへ。紹介します、……ほら、もっとこっちにおいでよ。クラスメートの多恵ちゃんです」
「は、はじめまして。佐木本 多恵です」
「僕がビッグロボの操縦者だって話したら、多恵ちゃんが基地とかそういうの見てみたいっていうんで連れてきました」
「正一くん、キミ、守秘義務とかそういうの……」
 ヴィーッ!
「敵、第二警戒ラインに接触! はやく、ビッグロボをはやく!」
「くっ、やむをえん。正一くん、ビッグロボ出撃だ!」
「はい! じゃあ多恵ちゃん、よく見ててね」
「うん、がんばってね正くん」
「チッ。小学生が、色づきやがって……」
「え。なにか言いました博士?」
「ううん、なにも。さあ正一くん、今日はロボに新兵器を搭載したぞ。これは周囲100kmの電子機器をすべて破壊するというもので」
「――ソウハ サセルカ」
「むっ」
「……多恵ちゃん?」
「タエ デハナイ。ワタシ ハ こんぴゅーた ノ カミ「ぞでぃあっく」。キサマタチ にんげん ヲ タ〜ベチャ〜ウゾ〜」
「いかん正一くん、罠だ! 多恵ちゃんの正体は敵、しかも大ボスだ!」
「多恵ちゃんになら食べられてもいいなあ……」
「寝ぼけたことをぬかすなエロ正! はやくコンピュータ破壊波動(仮)を撃つんだ、食べられちゃうぞ!」
「科学者の言葉とは思えないなあ。いや、だめです博士。これはゾディアックじゃない、多恵ちゃん……僕の大好きな多恵ちゃんです」
「正一くん」
「ナンダト ショウ……イチ」
「多恵ちゃん、覚えているかい。当番で一緒にゴミ捨てにいった焼却炉。何度もすれ違った二階の廊下」
「たいして仲良くなかったんじゃん」
「博士は黙っててください!」
「だから黙ってられないんだよ正一くん! はやいとこコ破(略)を発動させたまえ! 命運、地球の命運!」
「黙っててください! ゾディアック、いや、多恵ちゃん。きみの心には確かに、僕らと過ごした思い出があるはずだ。それを……思い出してくれ!」
「ソノ メモリ ハ しょうきょ シタ」
「! 多恵ちゃん!」
「ナゼナラ ソレハ ワタシ ニ トッテ……」
「ええい、もう見てらんねえ! ビッグロボ、博士の名において強制発動だ!」
「ちょっ、博士、なんですかそれ?!
「悪いが正一くん。キミはただの飾りだったということだよ……。ビッグロボは私一人ですべてコントロール可能だったのさ。よし、コンピュータ破壊波動、レディ……ファイア!」
「ウ ア アァァ……」
「えー! アホー、博士の

 *  *  *

 テレビアニメ『ザ・ビッグロボ』は当初、全国ネットで52話放映される予定だった。しかし視聴率の低迷でスポンサーがつかず、13話で打ち切りとなる。
 強引すぎる終章に賛否両論あがったが、その問題のラストシーン直後に放映地域全域で停電が起こるという異常事態が発生し、図らずも伝説のアニメとなってしまったのであった。
 いや、それこそが制作スタッフのシナリオ通りだったのかもしれない。
 今となっては知るよしもない、まあ特に知りたくもない。





「――そしてパンドラは壺に蓋をしましたが、残されていたのは希望だけでした。おわり」
「へえ。それが『パンドラの壺』の話なんだ」
「うん、そう。なんか深いよね」
「希望は壺に残されちゃったままかー。だからこの世には希望もなにもないのか。どうせなら全部出しちゃえばよかったのにな」
「……! ちょっと行って開けてくる!」
「えっ。どこ行くのさ」
「ギリシア!」
「ギ、ギリシア――?!

(アテネ編へつづく)





「あ、携帯の番号教えてよ」
「いいよ。えーっと……PNZ03Xの、00036J、かな」
「……ちょっと待てどこ見てんだよ。なんで製造番号見てんだよ。ふつう携帯の番号って言ったら電話番号だろ、ってそもそもなんだそれ、なに持ってんだよ!」
「携帯用コーヒー泡立て器?」
「器? じゃないよ、ふつう携帯って言ったら携帯電話だろ!」
「はぁ? 電話? なんで泡立て器で電話がかけられるのさ。バカじゃないの」
「……なんか、いいやもう。とにかく、急な連絡もあるからさ、自宅の番号教えとけよ」
「いいよ。えーと、HCO-0208-102……」
「待て、待て。それ絶対自宅の泡立て器だろ。ていうか既にすごいな。覚えてんだ」
「そう? 普通覚えてるだろ」
「そう……だよな。自分ちのだもんな」
「そうだよ。変なやつだなあ」





「えー、というわけでひったくり防止のため、鞄はしっかりとたすきがけにしてですね」
「ちょっと待ってください町内会長。あなた、本当のたすきがけを知った上でそんなことをおっしゃるのですか?」
「ま……松さん、またアンタか。もうアンタの言うことには騙されな……」
「皆さん、いいですか! たすきがけは本来、生半可な決心でするものではないんですよ」
「あら松原さん、どういうことザマスの?」
「ええ、PTA会長。まずはたすきがけの語源からお話ししましょう。そもそも『たすきがけ』とは」
「松さん。ちょっと、松さん。いいかげんに」
「たすきがけとは! かつて南米大陸において栄えたインカ文明、その情報網を支えていた飛脚、『チャスキ』と呼ばれた彼らの、その鞄の持ち方を指した言葉なのです」
「う、うう、嘘だ!」
「嘘じゃない。嘘ではないですよ町内会長。彼らチャスキの運ぶ情報は国の在り方を左右するほどのものだったに違いないのです。そんな大切なものを失くすわけにはいかない。そこで彼らは自然に、書状などを収めた鞄をこう、たすきがけ、否、チャスキがけに――」
「なるほど。それが時を経てタスキ、に変化したザマスね」
「馬鹿な! そ、そんな話があってたまるか! そ、そうだ、じゃあ、あれなどはどうなる! ことわざ『帯に短し たすきに長し』は――」
「かつてインカでは……チャスキはその身元を保証するための一枚の布を、王から下賜されていました。その布を身にする限り、チャスキは行く先々で水や食料、様々な援助を受けられたのです」
「それがどうしたと」
「ものの本によれば、ある時ひとりの農民がチャスキの特権を手に入れようと企み、チャスキが持つ布とよく似た布を用意したそうです。それを手に彼は食料や金銭を町の者に要求した――」
「……うう」
「しかしどうやら挙動が怪しい。不審に思った町人が王に知らせます。王の前に連行される偽チャスキ。しかし彼は頑として自分が真実チャスキだと言い張る。そこで王は言うのです。『その布の長辺とおぬしの背丈、はたして一致するものか』と」
「……嘘だ」
「実は、王がチャスキに与える布は、そのチャスキの背丈と同じ長さになっているのです。案の定、偽チャスキの持つ布は彼の背丈よりも随分と長かった。観念した男に向かって王は言いました。『おまえの背丈より随分と長い布じゃ。しかし私の帯にするにはまだ少しも長さが足りぬ』――王の聡明さと、さらに権威を表した言葉と伝えられています」
「うう、ううう」
「そうして生まれたのが『帯に短し チャスキに長し』です」
「嘘だ! うっ嘘だっ!」
「どうして嘘だと決め付けられるのです! 確かめもせず、自分の知らぬことは全て嘘だとわめきたてる!」
「そんな馬鹿な話が、馬鹿な話があってたまるか!」
「よろしい。そこまで言うなら町内会長、次の町会旅行は南米に行くことにして、その身で真偽を確かめようではありませんか」
「のっ望むところだッ。南米だ! 逃げるなよ松さん!」
「逃げるなどと。こちらこそ、望むところです」

「松原さん、お見事ザマス」
「町内会長にはいろんな場所に連れて行ってもらってますねえ。南米かあ……ぜひマチュピチュとかチョケキラウとか行きましょう」
「ちなみに松原さん……たすきの語源がチャスキだというのはご冗談ザマスよね」
「いえ、本当ですよ?」
「そ、そんな。そんな馬鹿な話はないザマス」
「嘘だと思うのでしたらご自分で調べてごらんなさい



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